神の御子が苦しんだとはどういうことか――具体例で読むホラッツの「属性の交流」
この教えを整理したホラッツ
ダーフィト・ホラッツ(David Hollaz、1648–1713)は、ドイツのルター派の牧師であり、学校で教える教育者でもありました。キリスト教の教えを整理した『講義用神学審査』を1707年に出版しました。今回取り上げる「属性の交流」は、ホラッツが新しく作った教えではありません。彼が受け継ぎ、詳しく説明した、キリストについての教えです。
以下では、シュミット『ルター派福音教会の教義神学』§33に収められたホラッツらの説明と、ルター派の信仰をまとめた『和協信条』を手がかりに、その意味を考えます。ホラッツのラテン語原典からの直接訳ではなく、英訳資料に基づく解説です。
まず「誰が」と「どのような存在か」を分ける
最初に、二つの言葉を押さえましょう。「人格」と「本性」です。
ここでいう「人格」は、「人格者」というときの立派な人柄という意味ではありません。「誰が考え、行動し、苦しむのか」という、その本人を指します。「本性」は、「どのような存在であり、どのような性質を持っているか」という意味です。
キリスト教は、イエス・キリストについて、「まことの神であり、まことの人である」と告白します。神としての本性を「神性」、人間としての本性を「人性」と呼びます。
人性があるというのは、人間の姿に見えたというだけのことではありません。私たちと同じように体と人間の心を持ち、空腹や疲れ、悲しみや痛みを本当に経験した、ということです。ただし、キリストには罪がないです。
そして、この二つの本性を持つ方は、一人です。神の御子と人間イエスという二人が、相談しながら動いているのではありません。永遠の神の御子ご自身が、人間となったのです。
「半分は神、半分は人」という意味でもありません。神性と人性を混ぜて、新しい種類の存在ができたわけでもありません。まことの神であり、同時にまことの人である一人の方。それがイエス・キリストです。